アーティスティック&スタイリッシュな写真に、サインペンによる手書きの文字やイラストを加えた広告デザインなど、ひと目見てそれと分かるアートディレクションを数多く手がけてきた「れもんらいふ」の代表、千原徹也さん。固定概念を覆す斬新なアイデアと、どこかクスッと笑えるユーモアを併せ持つそのスタイルは、今や企業だけでなくアーティストやファッションデザイナーからも引っ張りだこだ。京都出身の千原さんは、神戸のデザイン事務所を経て上京するも、一度大きな挫折を味わい地元に戻った時期があったという。そこからどのようにして今の地位を築き上げたのだろうか。現在は渋谷に事務所を構える彼が、クリエイティブな発想を養うために心がけたこと、コロナ以降に考える新しいビジネスモデルなど、たっぷりと話してもらった。
YOU MAKE SHIBUYA連載企画「渋谷のこれまでとこれから」
新型コロナウイルスの影響で激動する2020年の視点から、「渋谷のこれまでとこれから」を考え、ドキュメントする連載企画。YOU MAKE SHIBUYA クラウドファンディングとCINRA.NETが、様々な立場や視点をお持ちの方々に取材を行い、改めて渋谷の魅力や価値を語っていただくと共に、コロナ以降の渋谷について考え、その想いを発信していきます。
ラフォーレの看板を眺めながら「ああ、こういうデザインをやってみたいな」と思いながら暮らせたのは良かった。
―京都出身の千原さんにとって、渋谷での「初めての記憶」というと?
千原:なんだろう……初めて聞かれましたね(笑)。おそらく学生の頃だと思います。ちょうどその頃、雑誌『Olive』を読んだり、ピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターなど、いわゆる「渋谷系」にハマったりしていて、DJイベントやトークイベントを観に渋谷へはよく来ていたんですよね。
当時、そういったカルチャー系のイベントは関西でもありましたが、東京でしか体験できないことも多かった。バイト代を貯めて、わざわざ渋谷の「HMV」や「WAVE」、代官山の「Bonjour Records」まで行って、そこで買い物をするのが楽しくて(笑)。おそらくそれが、渋谷での最初の記憶かも知れない。渋谷以外にも、例えば中目黒のカフェや、代官山の「A.P.C. SURPLUS」、原宿のキャットストリート辺りもウロウロしていました。
千原徹也(ちはら てつや)
1975年京都府生まれ。広告、ブランディング、CDジャケット、装丁、雑誌エディトリアル、映像など、デザインするジャンルは様々。H&M GOLDEN PASSキャンペーン、「Onitsuka Tiger×Street fighter V」ディレクション、adidas Originals店舗ブランディング、久保田利伸『Beautiful People』、桑田佳祐『がらくた』、関ジャニ∞『ジャム』、吉澤嘉代子MV&ジャケットデザイン、ウンナナクールのクリエティブディレクター。その他にも、アートマガジン『HYPER CHEESE』、『勝手にサザンDAY』企画主催、J-WAVEパーソナリティ、れもんらいふデザイン塾の主催、東京応援ロゴ「KISS,TOKYO」プロジェクトなど、活動は多岐に渡る。
―大学卒業後も関西に住んでいたのですね。
千原:学校は神戸にあって、住んでいたのは京都でした。上京も考えてはいたのですが、弟が障がいを持っているから、母親には「この子が成人して、どこかに就職できるまでは近くにいてあげてほしい」と言われていたんですよ。実は東京でも就活はしてみたのですが、うまくいかず。「関西で就職するしかないな」っていう感じでしたね。
―上京のタイミングはどんなことだったんですか?
千原:大学卒業後、マクドナルドのクーポン券を作る会社に入ったんです。一応「グラフィックデザイナー」という肩書きで。大して面白い仕事をしている感覚はなかったんだけど、それでも個人で京都のライブハウスのフライヤーを作るなど、それなりに何となく楽しんでいたんですよ。でも、それこそ弟の就職が決まり、そのタイミングで「俺も自分の夢についてもう一度考えようかな」みたいな気持ちになって。グラフィックデザイナーとして、ずっとモヤモヤしていた気持ちを晴らすためにも「ダメ元」というか。1年くらいは東京で挑戦しようと思って上京してきました。それが28歳くらいでした。
デザインの仕事って別にスター性とかないんですけど、当時はグラフィックデザイナーにスポットが当たっていたというか。佐藤可士和さんなんて、「スター」のような存在でね(笑)。僕は美大にも行っていないし、関西で細々とやっているくらいが自分の器かなと思っていたのだけど、可士和さんのデザインって「デッサン力」とか関係なく「センス」で乗り越えていく感じがして。SMAP(デビュー10周年を機に展開されたSMAPのキャンペーン)のデザインとかも、赤と青と黄色の3色だけで、こんなすごいデザインが出来るんだ! と思って勇気付けられました。失礼な言い方ですが「自分にも出来そう!」と思わせてくれたというか。
―上京してまずは、どこに住んでいたのですか?
千原:浅草の本庄吾妻橋という駅の近くにあった、5万円台のアパートに住んでいました。東京で最初に就職したのは、取引のあるデザインプロダクション。今はどうか分かりませんが、当時のデザイン業界はあまりにも過酷で。家には帰れないし怒られるし……2ヶ月くらいでちょっと精神的にもしんどくなってしまって、一度京都に帰ったんですよ。
その時は「弟の面倒も見られるし」なんて自分に言い訳していたのですが、一井りょうさんという、仲良くさせていただいている関西のカメラマンの方が、すごい剣幕で怒ってくれたんです。「あれだけ啖呵切って上京したくせに、2ヶ月で帰ってくるとか見損なったよ」「千原くんならもっと試行錯誤しながら、乗り越えていけると思ってたのに」って。
―愛のある叱咤激励だったのですね。
千原:その言葉に背中を押されて、もう一度頑張ろうと。当時僕が働いていたプロダクションに、電通アートディレクターの宮坂佳克さんが来られていたんです。彼がTENGAのデザインとか色んなことをやっていて(笑)、ちょっとした仕事を振ってくれていたんですね。そういうのを請け負ったり、松本弦人(グラフィックデザイナー)の下でバイトしたりしながら色々面接を受けていたら、博報堂の契約社員に採用されたんです。その時が30歳くらいだったかな。
―独立までの経緯は?
千原:博報堂では2年くらい働いて、そのあとファッションを専門にやっているデザイン会社で3年勤めてから独立しました。その頃はもう原宿に住んでいたんですよ。キャットストリートを1本裏に入った6万8千円のボロいアパートだったんですけど、ほとんど家に帰らないから「寝るだけでいいか」という感じで(笑)。
立地的にはすごく良かった。渋谷や原宿のカルチャーを肌で感じる場所にいたかったんですよね。「通勤に便利だから」という理由で住む場所を決めてしまうと、仕事と家の行き帰りだけでしかなくなっちゃうんです。原宿に住んでいたおかげで、「あ、また新しいビルが出来てる」「こんな路地裏にセレクトショップがあるんだ」とか、そういう情報を肌で感じることができた。ラフォーレの看板を眺めながら「ああ、こういうデザインをやってみたいな」とかね。そう思いながら暮らせたのは良かったと思っています。
―浅草に住んでいる時とは違う気持ちになれたと。
千原:浅草は便利だったけど、「東京に住んでいる感」は全くなかったんですよね。もちろん浅草が悪いというわけじゃなくて、その時は「線路沿いの便利なところ」で選んでるから、自動的に家と会社の往復になっていた。外の景色も見ていないし、自分の時間を作ってトークショーを聞きに行くとか、レコード屋さんへ行くとかもしていなかった。でもそれじゃあ意味がないと思ったんですよね。
サイト情報
- 『YOU MAKE SHIBUYAクラウドファンディング』
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23万人の渋谷区民と日々訪れる300万人もの人たちが支えてきた渋谷の経済は“自粛”で大きなダメージを受けました。ウィズコロナ時代にも渋谷のカルチャーをつなぎとめるため、エンタメ・ファッション・飲食・理美容業界を支援するプロジェクトです。
プロフィール
- 千原徹也(ちはら てつや)
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1975年京都府生まれ。広告、ブランディング、CDジャケット、装丁、雑誌エディトリアル、映像など、デザインするジャンルは様々。H&M GOLDEN PASSキャンペーン、「Onitsuka Tiger×Street fighter V」ディレクション、adidas Originals店舗ブランディング、久保田利伸 「Beautiful People」、桑田佳祐 「がらくた」、関ジャニ∞ アルバム「ジャム」、吉澤嘉代子MV&ジャケットデザイン、ウンナナクールのクリエティブディレクター。その他にも、アートマガジン「HYPER CHEESE」、「勝手にサザンDAY」企画主催、J-WAVEパーソナリティ、れもんらいふデザイン塾の主催、東京応援ロゴ「KISS,TOKYO」プロジェクトなど、活動は多岐に渡る。