1995年、渋谷区宇田川町にHEADZの事務所を構えた佐々木敦は言う。「1990年代を通して、世界で一番進んでいたレコード文化の国であった日本の中の、最も進んだスポットが渋谷だった」。タワーレコードやHMVといった大型ショップがにぎわう一方、宇田川町にはクラブミュージック系のレコードショップが密集し、雑居ビルの中にはマニアックなリスナーが夜な夜な通うアヴァンギャルド系のショップも点在した1990年代の渋谷。ライブハウスやクラブも含め、そこを行きかう若者たちが最先端の音楽文化を作り上げていた。
それから25年が経ち、インターネットの浸透は情報のあり方を質的に変え、再開発によって街の風景は大きく様変わりした。きらびやかな建物が増え、渋谷を訪れる層は広がったように思うが、かつての文化的な熱量は拡散してしまった印象も拭えない。そして、そんな最中での新型コロナウイルス感染症の拡大。都市のあり方が改めて問われる中にあって、佐々木は「場所」の重要性を改めて主張する。「音楽の街」であり「若者の街」である渋谷はどう変質し、これからどこに向かうのか? 前編と後編にわけて、じっくりと語ってもらった。
YOU MAKE SHIBUYA連載企画「渋谷のこれまでとこれから」
新型コロナウイルスの影響で激動する2020年の視点から、「渋谷のこれまでとこれから」を考え、ドキュメントする連載企画。YOU MAKE SHIBUYA クラウドファンディングとCINRA.NETが、様々な立場や視点をお持ちの方々に取材を行い、改めて渋谷の魅力や価値を語っていただくと共に、コロナ以降の渋谷について考え、その想いを発信していきます。
1990年代の渋谷は圧倒的に「音楽の街」であり「若者の街」だった。
―佐々木さんは1995年に渋谷でHEADZを立ち上げたんですよね。
佐々木:1995年の5月に山手マンションの一室を借りたのがHEADZの誕生で、それ以来ずっと同じ場所にいるので、25年も定点観測してきました。1990年代と今ってすごい変わったけど、僕はずっと地続きに、少しずつの変化を見てきたから、顧みて初めて、「そう言えば昔あったものがほぼない」みたいなね。
佐々木敦(ささき あつし)
文筆家。1964年、愛知県名古屋市生まれ。ミニシアター勤務を経て、映画・音楽関連媒体への寄稿を開始。1995年、「HEADZ」を立ち上げ、CDリリース、音楽家招聘、コンサート、イベントなどの企画制作、雑誌刊行を手掛ける一方、映画、音楽、文芸、演劇、アート他、諸ジャンルを貫通する批評活動を行う。2001年以降、慶應義塾大学、武蔵野美術大学、東京藝術大学などの非常勤講師を務め、早稲田大学文学学術院客員教授やゲンロン「批評再生塾」主任講師などを歴任。2020年、小説『半睡』を発表。同年、文学ムック『ことばと』編集長に就任。批評関連著作は、『この映画を視ているのは誰か?』(作品社、2019)、『私は小説である』(幻戯書房、2019)、『アートートロジー:「芸術」の同語反復』(フィルムアート社、2019)、『小さな演劇の大きさについて』(Pヴァイン ele-king books、2020)、『これは小説ではない』(新潮社、2020)他多数。
―なぜ渋谷を選んだんですか?
佐々木:当時は編集がメインだった原雅明くんと一緒に仕事したり、遊んだりしてる中で、「自宅で仕事してると煮詰まるから、仕事場として事務所を借りよう」ってなったんだけど、2人とも何の躊躇もなく「渋谷がいい」って決まったんです。
みなさんご存知のように、1990年代の渋谷は圧倒的に音楽の街でした。特に宇田川町は、輸入盤のレコード屋とか中古盤屋がいっぱいあって、僕はそういうカルチャーにどっぷりつかっていて。毎日レコ屋に行くような生活してるんだから、歩いてすぐレコ屋に行けるようなところがいいよねって。
―まだネットも携帯電話も普及してない時代だから、レコ屋がメディアの代わりを果たしていた感じですね。
佐々木:そうですね。当時は毎日レコード屋に行って、エサ箱漁って、12インチ買ってきて、何か書いたり書かなかったりっていう、それ自体が仕事と直結していて。仕事と生活と趣味が全部合体した状態。だから渋谷の中でも「宇田川町」一択で不動産屋に飛び込みで入って、何件目かで山手マンションに出会いました。1990年代以降であれば、 「渋谷 or ◯◯」とか「渋谷以外で」って発想になったかもしれないですけどね。
あと、レコ屋文化の他にもうひとつの大きな要因は、渋谷は「若者の街」だっていうこと。新宿もかつては若者の街だったけど、1990年代は渋谷の方が圧倒的に強かった。音楽を含むユースカルチャーの街で、歩いてればいろんな人と会えるし、とにかく便利だったんです。
でもまさか、その後25年経ってもあそこにいるとは想像だにできなかったというか、25年経ってもHEADZをやってるとは……やってましたねえ(笑)。それは非常に驚きです。
2015年にHEADZ事務所で収録されたMV
この20年くらいでジェントリフィケーション的な変化があった。
―まずは大きく振り返ると、25年間の「街」の変化をどう感じますか?
佐々木:たとえばセンター街ってこの25年間、数えきれないくらい何度も通ってますけど、持ってる雰囲気はすごく変わりましたよね。今から思うと、1990年代の方が明らかにデンジャラスだった。だって、どこの国の人かわからない連中がテレカを売ってきて、それ以外のものも売ろうとしてくる、みたいな感じでしたからね。音楽オタクからちょっとずつスライドしていって、ふと気づくとアウトロー的な何かになっちゃう、みたいな感覚も普通にあったし。
でも、この20年くらいでジェントリフィケーション的な変化があって、バスケットボールストリートとか言い始めたあたりからそういう感じになっていきましたよね。それ自体は悪いことではないと思うけど、とにかく街の雰囲気はかなり変わった。
―ジェントリフィケーションによって、渋谷を訪れる世代が幅広くなって、徐々にIT企業が進出して、ビジネス街的な側面も帯びてきた。ただ、その分「若者の街」であり「音楽の街」であった渋谷という街の記名性は薄れていったように思います。
佐々木:たぶん、渋谷はずっと若者の街で、今も基本的には若者の街だと思う。ただ、若者自体が質的に変化したと思います。それは「渋谷に来るような若者」ってことだけど。デンジャラスな話で言うと、1990年代はまだチーマー文化があって、チーマーが集うのがセンター街だったりもして。その中の一部はより先鋭化して悪くなる一方で、だんだんそういう人たちが減っていったのは、日本自体が豊かじゃなくなっていったのも大きくて。勝ち組負け組の差が拡大していくと、「勝たないといけない」って思う若者たちは、悪くならない。ギャル文化とかもそうだけど、従来の悪くなりかねない子たちに安くいろんなものを買わせるっていうビジネスモデル自体が成り立たなくなっていく。そこには少子化の問題もあるわけだけど。
―そうなると、街の風景にも変化が出てきますね。
佐々木:店舗物件が空洞化していく中で「ここオフィスビルにした方がいいんじゃない?」ってなって、ゼロ年代から急激にIT企業が入ってきたわけですよね。マークシティの上のオフィスビルとか、駅近辺に大きなビルがニョキニョキ建っていった。昔のセンター街は撮影してるとすぐやくざが来ちゃうから、「映画に撮れない場所」って言われてて。ジェントリフィケーションが起きて、浄化されていく中で、そうした風景やお店に変化があったと思います。
サイト情報
- 『YOU MAKE SHIBUYAクラウドファンディング』
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23万人の渋谷区民と日々訪れる300万人もの人たちが支えてきた渋谷の経済は“自粛”で大きなダメージを受けました。ウィズコロナ時代にも渋谷のカルチャーをつなぎとめるため、エンタメ・ファッション・飲食・理美容業界を支援するプロジェクトです。
書籍情報
- 『批評王——終わりなき思考のレッスン』
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2020年8月26日(水)発売
著者:佐々木敦
価格:2,700円(税込)
発行:工作舎
プロフィール
- 佐々木敦(ささき あつし)
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文筆家。1964年、愛知県名古屋市生まれ。ミニシアター勤務を経て、映画・音楽関連媒体への寄稿を開始。1995年、「HEADZ」を立ち上げ、CDリリース、音楽家招聘、コンサート、イベントなどの企画制作、雑誌刊行を手掛ける一方、映画、音楽、文芸、演劇、アート他、諸ジャンルを貫通する批評活動を行う。2001年以降、慶應義塾大学、武蔵野美術大学、東京藝術大学などの非常勤講師を務め、早稲田大学文学学術院客員教授やゲンロン「批評再生塾」主任講師などを歴任。2020年、小説『半睡』を発表。同年、文学ムック『ことばと』編集長に就任。批評関連著作は、『この映画を視ているのは誰か?』(作品社、2019)、『私は小説である』(幻戯書房、2019)、『アートートロジー:「芸術」の同語反復』(フィルムアート社、2019)、『小さな演劇の大きさについて』(Pヴァイン ele-king books、2020)、『これは小説ではない』(新潮社、2020)他多数。